性的対象 (東京事変のアルバム風に)

必要ヴォルティスロボこと、つぃっ太のツイッターでのつぶやきを更に突っ込んで整理、発表したい時に利用しようと思います。 https://twitter.com/sangatukitijitu 主に 能年玲奈の事 あまちゃん他ドラマの事 ももクロちゃんの事書いてます。 

日記的な何か (仮) あまちゃん ピーターパンシンドローム

いろいろあまちゃんについて考察していて、こんな話題になりました。

 

天野アキ達、北の海女の衣装なんですけどね。、あれ、ピーターパンに見えるなあ、と。

 

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能年さんのあまちゃんでのお得意のポーズ。

 

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懐かしの、榊原郁恵さんのピーターパン

 

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最近は大東リッキーさんという人が演じてるミュージカル、ピーターパン。男前ですね。

 

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ピーターパンは大人になるのを拒否するネバーランドの住民です。

 

あまちゃんって、北の海女達が北三陸のウニを取る物語なですが、この絵を一般的には潜る物語として読み解くのが主流だと思う。私もこの深層に潜っていく、という見立てに同意する者なのですが、ここで一つの見方を提供してみたい。

あの姿、青い空と海が溶け合い、北三陸を一つのユートピアとして見たとき。海もまた一つの空と読めないか。すなわち、ピーターパンの衣装を身にまとった永遠の少年、天野アキが、空を飛び、星を掴む(ウニが星のメタファとなる)姿を活写するシーンが、アキの海女シーンだったのではないか。

北三陸の海女たちは、天駆ける天女なのです(そろそろくたびれ始めてる)。彼女たちは新陳代謝を求めていた。そこへ、アキがやってきたのです。

 

 

 

時間の止まったネバーランドの住民、迷子の少年ピーターパン。

あれ、あまちゃんと似てない?というお話でした。

 

追加。

 

若き日のキョンキョン。この人も男装の麗人でしたね。そのように伝えられた事は無いですが。

 

 

 

 

 

日記的な何か (仮) 能年玲奈 あまちゃんで、一番好きなシーン。

なんかもう、能年さんの事ばっかり書いてますねえ。本当はあまちゃんってブチ上げてて、あのドラマそのものの多角的、重層的なニュードラマスタイルを、これからのドラマのトレンドとしてあれこそが一般化するのではないか、という事について書き込みたいなんて思ってたブログなんですけどね。

 

ブログってなんでも毎日書き込み続けてないとアクセス数も増えないなあというのがあって、そうすると励みにもならないんですよね。やっぱり気にしてしまう。一日アクセス数30件とかいう泡沫ブロガーとしては。で、とにかく何かアップしようと。今日は時間も無いのですが、私自身があまちゃんというドラマで一番好きだったシーンを。

 

あのドラマをご覧の方には色々と好きなシーンあると思うのですが、結構どのシーンが一番ですか?という事になると案外同じシーンになるかなと。まあラストのトンネル描写とかアキユイ、海女カフェでの魂の激突とか、けっこうね。ええ、私も大好きです。

 

そんな中でやはり私はちょっと違ったところから、なんか天邪鬼な事を書いてみたい性格ですので。ズバリ、第88話なんです。アキがNG40回しでかすヤツ。

ひたすらNG連発してる最中、一瞬、実に楽しそうに、ある意味、意地悪そうにボールドー!って叫ぶ天野アキ、能年さんの、いたずらっ子然とした表情を見せる。とても楽しそうな表情が大好きなんですよ。あ、コイツ本当はこういう奴だろ、というのが出てて。

所謂、彼女の中の少年が顕著に顔を出してると思うのです。あのドラマ中、あの人がいわゆる本当の素の部分を垣間見せたほとんど唯一の瞬間だったんじゃないかなあ。

 

こらえきれず感情が表出したシーンというなら、と。よく、鈴鹿ひろみと共に映画、潮騒のメモリーで太巻の演出時、子鹿ポーズで吹き出すシーンを素のように語られると思うのですが。

 

よく考えてください。薬師丸ひろ子能年玲奈は、本当に演技に集中してたら古田新太が何しようが笑わないです。演技の一貫として毅然としているでしょう。

笑っちゃったらNGだからです。

本物の能年玲奈は、NGで笑わないのです。絶対に(NG出さないって意味じゃないです。NGを笑ってごまかすような事は絶対しないだろうな、という事です)。

あのシーンは演出家から面白かったら笑ってくださいとあらかじまふられているから、あえて笑ってるのです。そういう演出です。私たちは彼女たちにリードされて、滑稽な演出家を演じる古田新太を認識しているのです。これぞ女優な訳です。

 

そして、あの88話において、能年さんはトンデモない事を平然としています。

あの回で、彼女はまず天野アキ演じています。天野アキは能年玲奈じゃありません。あれは芝居上のキャラクターです。そして、初めてのドラマデビューで舞い上がる下手くそな新人天野アキが演じる隣人C演じます。NGシーンを、太巻の言葉を借りるなら40通り演じた事になっている(逆に才能だよ!と叫んでます)。そして最後に、見事にあのドラマ内ドラマのワンシーンに登場する隣人Cというキャラクター、を演じています。

 

おわかりいただけただろうか。

 

能年玲奈は、あの88話において、3つの全く異なるキャラクターを演じ分けているのです!

 

あまちゃんとは、女優、能年玲奈の成長物語です。その真骨頂ともいうべき回。

 

女優、能年玲奈。彼女の化物ぶりが遺憾なく発揮されているこの回が私は一番好きですね。是非、そういう視点でもう一度ご覧下さい!

 

 

 

 

 

 

 

日記的な何か (仮) 能年玲奈 少年の心、少年の笑顔。

「でたらめな事を並べて、無理やり系統だててみせる。そしてそこに因果関係があるかのように熱っぽく語る。それは、さも最初からそうだったかのように聞こえてくる」

世の中の多くの言説は、実際は以上の行程を辛抱強く繰り返すことで形成される。

真実とは。多くの人にとって自分の知りたい事であり、もっと言うなら。自分がそうであって欲しいと考えている社会像にすぎないのではないか。驚くべきことにこれは、精緻に事実とのみ向き合っているはずの研究者、事業者にこそ顕著な傾向ではないか。

人は夢を見る。そして夢を追い求める過程で力を身につける。現実的な力を。現実を生きている彼ら。最も最先端に生きるはずの彼らは。夢を見て追いかけ続けている。最先端の研究とは、実はそんな夢想家たちの妄想の塊ではないのか?

夢想はオピニオンリーダー達の特権じゃないよね?みんな、夢は見てるんだよ。

出鱈目な言葉は、時に意味を持つ。人間は言葉を操って遊ぶ生き物です。以下の私の文章もそのひとつだと受け取り笑っていただけると幸いです。

そしてもう一つ重要なことですが、これは私の中での真実です。

以上、前口上。与太話を始めます。こういうの大好きな人なんで。今後もこの手のヤツちょくちょく書き込みします。

 

能年さんという人は何を考えているのかわからない人、というのは割と共通認識なんじゃないかと。彼女の事を知れば知るほど、実は彼女が何者なのかよくわからなくなっていくんですよ。昔の画像と全然違うとか、外見的な事。昔のブログはチャキチャキだったのに今は不思議ちゃんキャラじゃねえかと、何かネガティブにも語られるようなところがあるんですが、これは成長過程と捉えてしまえば差し障りは無いのでしょうけどね。それだけでは説明つかない何かもあるんです。

 

この人は今が、今のイメージこそが不在なんですよね。むしろ、今何を考え何を感じているのかが捉えられない。イメージも持てない。

昔の、表情の乏しかったころの画像のほうがむしろ掴みどころが多い。ああ、なんか内気なひとなのかな、大雑把な性格してそうだな、地声低いのね、とかね。彼女を伝えるカケラが落ちてるんですよ。

 

今、能年玲奈と言えば(というか今でこそなんでしょうけど)、能年玲奈は天野アキの事です。ライトなファンは彼女をただその通りに捉えていると。しかし、私なんかは彼女の事が好きすぎる訳で、そうすると彼女を追いかけ始めると益々この人が何を考えてるのかわからないんですよ。この人はいったいなん何だろう?と。

天野アキにも通じるテーマではあるんですけどね。正体不明。不思議ちゃんって言葉で、放送事故って言葉で片付けられるのが彼女なんですが、あの一瞬、間をおいての、「ハッ!」と答えてからの珍回答は最早定番なのですが。

でもこの人は時に極めて的確なことも話すのです。ラジオであまちゃんというドラマについて脚本家のクドカンと話したとき、その印象を聞かれ、「大人の皮をかぶった幼稚園児が遊んでる話」と答えてます。私はあのドラマをこれ以上的確に言い表した言葉を他に知りません。情報量が中森明夫の5万字分の容量です。あれはつまりそういう話でしたから。

あくまで現場で、彼女たちが演じた北三陸の舞台で展開されるストーリーは他に言い現しようが無いと。実に的確な表現。つまり、これはかなり論理的なのです。

女性的では無いんですよ。いつものように。そして、なんか答えるの遅い、と感じません?1テンポ、ひと呼吸間を空けて話すんです。

あの謎な受け答えなんですけど。あれ、あの独特の間をのぞいて答えてる内容を聞いてると、男性スポーツ選手の受け答えとかに似てませんか?素っ気なくて具体的で、けして早口にならずに喋りだした事からは話題が飛ばない。あの年頃のアイドルの子の話とか、結構喋りだした言葉と結語がバラバラになってる事あるんですけど、そういうのが無いんです。凄く語彙を絞ってる事も手伝って。

 

彼女はヒゲを好みます。ヒゲをしている男を好んでいるのではありません。ヒゲを好むことを盛んにアピールします。ヒゲの形状に興味を示します。髭面の男に興味は示していません。

まあ、そういうの可愛くね?くらいの事務所的戦略もあるんでしょうが。彼女はヒゲを大変特徴的な使い方をします。

ヒゲを自分に身につけて、こちらを見下すのです。

付け髭なんだから身につけてポーズなんて当たり前だろって?あの人女性ですよ?

 

彼女はカルピスウォーターのCMメイキングでのインタビューで、自身の初恋について語るシーンがあります。当ブログでも紹介しましたが、この時彼女は、

「一番最初に好きになったのは、幼稚園の時」

「おんなじ組みの」

ここで一拍間がある。

「おとこのこでした」

そりゃそうだよね、と笑って見てましたよ?もちろん。でも何度か見直してある事に気がつきました。男の子で当たり前じゃねえのか? ヒロシくんとか種市くんとか答えねえか?なんで一瞬間を置いた?

 

皆さんご存知の通り、役を離れた時にふと見せる、この人の表情はとても凛々しいのです。ゆっくりと周囲を見つめて考えながら時を過ごしている。この時の表情は、かなり固い。何か、能面を感じさせます。ポーカーフェイス。そのものズバリ、ポーカーなどの賭博で相手に自分の心を読まさないような顔。緊張感の高い顔。

周囲を受け入れる顔じゃないのです。これから動き出せるよう準備してる顔。

あんまり、こういう顔の女性タレントっていません。宝塚の男役です。

カメラが回っている事が明らかな時。つまりバラエティ番組などでの彼女の、満面の愛らしい表情とは実に対照的です。

 

疑念についていちいち検討する言葉を私は持たない。いきなり本論に入りましょう。

この人、脳が男なんじゃないの?

人間には男性には男性の脳、女性には女性の脳が備わっていることが近年わかってきています。しかし、稀にこれがアペコベになってしまう人がいるらしい。男の体に女の脳。女の体に男の脳。いわゆる、性同一性障害を引き起こす要素です。

 

じゃあ、この人は女性である自分の肉体に嫌悪し、男になりたがるはずだろ!馬鹿じゃねえの?というお答えもあるかと(まあ、真面目にここまで読んでいただいた方がいれば、ですが)。

 

この人は、男性の意識をもって自分の女性の肉体を美しいものとして受け入れたのではないか?自らの肉体を、理論的に好ましいものと、自身受け入れる選択をしたのではないか? 

 

「好きなものを好きだってちゃんと受け入れること」能年玲奈

(CUT No330 インタビュー、人間として一番大切な事は何かという質問に答えて) 

 

脳が男性だろうが、女性的なもの、女性の肉体に憧れる人も珍しいことは無い。

むしろ、至高の肉体を得たと感じるかもしれない。

その事実を受け入れるには大変な葛藤があったかとは思いますが……。

 

などと、私は彼女の摩訶不思議な頭の中の真実を夢想ているのです。という与太話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日記的な何か (仮) 能年玲奈は阿修羅である (菩薩とかキリストとかのアレ系的なやつ)

能年玲奈が死ぬことは禁止されている!(アスラシステム作動!

 

そうじゃなくて、能年玲奈が阿修羅であるという一席です。ええ。山口百恵が、とか、前田敦子が、とかのあれです。能年さんを見ていて、ちょっと思うところありまして。

演者が役に成り切る事を憑依型とかいいまして、性格俳優の褒め言葉みたいに使われてます。上野樹里なんかは典型で、感情を顕にして役になりきり鬼気迫るシーンを演出していきます。ですので、若手の子を褒める時にはこの言葉は頻繁に使われたりしてる。

 

能年さんは今、彼女の演技に対する評価が非常に曖昧な状態です。人によっては演技力などなかった可愛いだけのピュアな天然少女という事になっています。ちゃんちゃらおかしいのですがこの際まあいいでしょう。あるいは中にこんな意見も出てくるのです。能年ちゃんは天野アキが憑依して、まるで天野アキにしか見えない存在感を出していた、と。能年玲奈という入れ物に、天野アキという存在を取り込んだのだと。

 

私はこの見方に全く同意しないのです。彼女の演技には彼女の感情が殆ど反映されていません。驚くべきことに、これは彼女が演じるあらゆる役において共通です。

彼女が感情的になる場合、それが彼女の演じる役の女の子が感情的になっているシーンなのです。あのあまちゃんでも名高い名シーン、アキがキョンキョン春子にアイドルになる事を涙とともに宣言するシーン。海女カフェでユイと魂の激突をし、「ダセぇくらい我慢しろ」と言い放つシーン。あのシーンで天野アキは確かに輝いていました。魂が躍動していました。しかし、それはなんというか。

 

能面が能を舞っているような美しさなのです。仮面の下から感情が吹き出ている。

 

能年玲奈では無いんですよ。あそこにいるのは天野アキなんです。完璧に、天野アキが存在しているんです。だからこそ憑依型なんて言い方になるのかと思いますが、根本が違う。彼女はアキを彼女の中に降ろしていない。どこか、凄く覚めてる。演技をしている自分を頭上から見つめるもう一人の能年玲奈が絶えずいる。監視している。例えるならそう、所謂、機械音が聞こえるんです。天野アキというアプリケーションシステムが起動しており、それは美しく彼女の肉体を経てステージに展開されている。しかしそれは能年玲奈というOSによってしっかり管理されている。彼女は芝居を支配しているように見える。私が彼女を芝居の王だと感じる所以です。したたかじゃ無く、穏やかじゃ無く、蠱惑的では無く、つまり女性的じゃ無い。猛烈に男性的。戦闘的、愚直、獰猛です。女王では無い。産む性では無く、切断する性。切り開く性。

 

彼女は天野アキを体内に降ろしたりしません。天野アキという仮面を被り、その表現を究極まで指先まで示してみせて、その時初めて魂を込めていると感じる。

魂?そう、彼女は全身全霊で役を演じ、コントロールしている。感情を役に乗っ取らせるように、天野アキに身体を明け渡しはしない。天野アキをねじ伏せている。

あの人の演技は命懸けで戦っている演技だと感じるのです。被った仮面に囚われず、自らの演技をそこに注いでいく。それを感じるようになって、本当に凄いものを毎日見せてくれてたんだと思っています。

恐るべき能力だと言わざるを得ない。

彼女は巫女では無いのです。司祭というべき存在である。彼女の中では彼女の意思こそが絶対の存在になり得る。彼女は自分の配役を従え、操り、意のままにする。

自らの肉体を役に提供させ、かつその身体をコントロールしている。当たり前でしょうか?私たちは会社員だったり、学生だったりするとき、実はその仕事の役に憑依されて働いているから出来ていること、多くないですか?

警察官とかみたいな制服を着た仕事の人なんか凄くわかり易いと思う。あれは正に仮面です。多くの場合、警察官はその制服により従わざるを得ない。彼らは自分たちの意志は別に、まずは制服の規律に従わないといけない。これと似たことがどの職業にも大なり小なり当てはまる。役者ってどうか?殆どの人は役に支配されていると言える。兵隊の役をやっているから兵隊に見えるんです。それがどうでしょうか。

あの人は、天野アキを演じていたのです。私たちは能年玲奈の演技を見ていた

能年玲奈の演じる天野アキを堪能させていただいていた。

これが若干20歳の少女の成せる業だろうか。

絶対的な信念、猛烈な自己意識。耐えざる勤勉。こういった要素が彼女の頭の中の誰かにはずっとある。能年OSとでも言うんでしょうか。女優脳。彼女は日常的に怒ってる、という告白を雑誌でしています。うまくコントロールできない、ともすれば役に飲み込まれてしまいそうになる身体を懸命に自分自身で支え、奮い立たせ、役を支配する。そこに汲々としている。女優脳と共存する、怒れる能年玲奈がいつもいる。

 

ある日、あまちゃんで彼女の面立ちを見ていて、その端正な佇まいから、朗らかな笑顔から。私はある物を見ていました。怒りのオーラのようなモノが、彼女の身体からは迸ってるんですね。彼女が天野アキを暴走させないで、彼女自身が天野アキをねじ伏せながら。

この人から立ち上ってるこれは、穏やかな陽炎にも見えたこの輝きは。実は猛烈な熱量を放つコロナだったんじゃないか。触れたら瞬時に蒸発してしまうような熱量。

そこに、阿修羅がたっていました。朝8時。彼女は炎の闘神となっていました。

そう。興福寺の阿修羅像。あの憂いを湛えた眼差しを私たちに向ける、八部衆の戦鬼の姿を思い重ねていました。元は正義の神だった彼は、仏法の世界では修羅界という絶えず争い続ける世界をあてがわれ住まわされました。強すぎる意志と正義への盲信は、妄執でしか無い。正義の神だったかれは今、仏の道を歩む。思い悩み傷つきながら立つその姿は、弱い私たちに圧倒的な支持を集めています。ヒーローなんですね。

 

誰もが心の中に、あの強い輝きを求めている。彼女は悟りきったように微笑んじゃいない。犠牲の子羊になんてなりはしない。自ら考え、悩み、そして究極の悟りというものへ向かって進んでいく。神前相撲の力士は最後は必ず神に敗れます。しかし、必ずその戦いに向かっていくのです。五穀豊穣を皆に与えるため。その漢が必要なのです。彼女はこの前、そこに自分を見たんじゃないか。何度でも立ち上がる。演技の道と戦いながら、演技の神と戦いながら、彼女はその四次元的感性と共に究極の演技を目指して演じ続ける。

 

能年玲奈は阿修羅である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日記的な何か (仮) 能年玲奈 鍛えて最強女優を作る 能年玲奈はミホノブルボンである

あまちゃんメモリーズ という文藝春秋社からの本が出ています。書店に並ぶや売れている様子のあまちゃん関連本の一つですが、参加している面子がビッグだったりして、この手の本では値段も1300円と手頃ですね(中森明夫表題まで能年さんを駆り出す本は2100円だったりします)。その本で一番注目されてるかもしれない(そうでもねえのかなあ?まだ)インタビューが、能年玲奈を育てた人、滝沢充子さんの記事です。

彼女はいかにして能年玲奈を作り上げることが可能だったのか。私はその秘密を垣間見たくてこの本を購入しています。

 

能年さんは元々、役者になる事について積極的ではなかった様子です。兵庫の田舎から出て東京へという流れのなか、まあ、事務所的には役者、というかアイドルタレントって立場に育てるのが一番手っ取り早いメディア露出戦略ですわね。だから彼女を滝沢さんのクラスに見学にいかせたのですが。まるでピンと来なかったと。

この人は中学時代は軽音楽でバンドを組んでたくらいで、もともとは音楽の道に進みたかったんではないか。志向するのも相対性理論とかゆらゆら帝国とか話してたようで、相当マニアック。両親の影響でしょうかね。単純な乙女心では本当に女性ギタリストに憧れていたのかもしれない。音楽志向だったのですよ。意外にも。

画面に立つこの人からは何か切ない上昇志向、寂しさ希に見え隠れするのです。ここでは無いどこかに、きっと自分はたどり着けるのだ。そんな切なる願いを絶えず抱えていた少女時代があったのでは。

あまちゃんで、天野アキが時折見せるとても切ない表情。それは演出上のシーンでは無く、例えば北三陸へ初めて辿り付き夏ばっぱのウニを8個も平らげて(小ネタとして、気づいている人も多かったと思いますが、この人本当はウニ食べてません。嫌いなんでしょうね)、両手に頭を乗せて大きく仰け反って仰向けに寝転んでると、そこからキョンキョン春子と夏ばっぱが言い争いを始めた時の動揺を隠せない不安げな表情から、東京へ返る事をむずがる表情。この一連の流れの時本当に切ない顔をする。以前、宮沢りえがこんな表情をするのが印象的だったのですが。

たぶん、幼少期からの何かがあるんだろうなとは思ってます。

 

滝沢先生の元へ何度も通ううちに、あるとき彼女は演技をするという事に喜びを見出します。そして一気にのめり込んでいったという事になっています。出来る事は誰よりも出来る。しかし、疑問を感じると全く動かなくなってしまうという。セリフ覚えは優秀との事です。頭で考えるんでしょうね。それも表面的な計算能力じゃなく、本当に根っこから考え込む。自分のロゴスに変えているんじゃないか。そのロジックは他者には全く理解不能でしょうが。能年語に変換されていくのでしょうね。

 

彼女を得たとき、彼女の周囲はきっと、この子は増長させちゃダメだ!という使命感にかられたんじゃ無いかと。先生の生ゴミ発言ですが。岡ひろみを厳しく鍛える宗像よろしく、この鉄は打たないとダメだ!と感じ取っていたと思う。結構、この人調子に乗るタイプにも見えるんですね。自分の能力自体には、ポテンシャルには自信持ってる。唯我独尊、超マイペースじゃないですか。不思議ちゃんとかいってごまかしてますけどね。基本、生意気ですよ。

 

彼女は、「ピュア」だったそうです。初めて見た時から、それが最大の魅力とひと目でわかるくらい「綺麗」だったんでしょうね。生のママの美しさ。付け加える必要のない美しさ。その輝きが何物にも代え難い才能である事は、これから年々重くなっていくでしょう。

 

本物の才能って、素質って、きっとぶっ叩いてぶっ叩いて伸ばす時ってあるんじゃないか。褒めて伸ばすなんて言いますけどね。そりゃきっとスタートラインですよ。怒られるようになっていっちょまえ。生ゴミって言われるようになって初めて仮免の初学者って言えるのか(才能の無い私なんかは褒めそやして欲しかったですけどね)。

実際、褒めないと潰れちゃう。そんな人がほとんどな世の中ですが。いや、才能がないって意味じゃ無いんです。才能なんて溢れてるんですよ、いろんな才能が。でも、それが発見され育てられ、開花する事は難しい

逆に言えば指導者に、先人に叩かれもしない才能なんて、褒め続けなきや止まる才能なんて、所詮その程度なんじゃないか。

そして滝沢先生はこうも付け加える。あんたはこの世界でこそ大きく羽ばたけるよ、と。本人に才能がある。そしてそれを伸ばす人と環境がそこに揃ったとき、時として恐ろしいものが生まれてくる能年玲奈は逃げなかった。敢然と、自分を生ゴミとも例えるシゴキの世界で生き抜いた。周囲は彼女の才能こそ伸ばす一心で、決して褒めたりしなかった。ただ、こう言い続けた。お前が輝くのはこの道の先だ、と。

 

能年さんは、執拗に滝沢先生に食らいついていったようです。この世界で輝く、ここでは無い何処かへ行く為の手段をその手にする為に。大笑いと爆笑の微妙な差異にまで気を配る表現への嗅覚を駆使し。台本に書かれた内容とはあえて別のものを読み取る、あえて読み違える形で演技をする。そして周囲に印象づけていく作戦。

彼女の存在は、おそらく業界で知る人ぞ知るものだったのではないか(中森明夫でなくとも)。いつかこの子は大爆発するだろう。そのスピードとパワーは測り知れないのだろうと。

長らく、彼女はその潜在能力からは意外なくらい地味なままでした。実際彼女は高校生レストランなんかでうみにーこと川島海荷の隣にいたりしますが、今と同じく普通に可愛いです。というか、普通な可愛い子に過ぎない。当然全く目立たなかったのです。容姿だけでは十人並みなんですよね。そして主役でもない限り彼女はその演出範囲を超えるような事はしません。となれば、目立たなくなるんですね。実に合理的に自然に演技というものをしている。まるで呼吸をするように

彼女自身の地味さ、性格の暗い部分はそのまま生きていました。これは彼女のピュアさをスポイルさせたくなかったのでしょうね。

 

彼女自身の高い素質、それは勿論あるでしょう。そしてやはり滝沢先生始め周囲の人の時間をじっくりかけて彼女を執拗に鍛え抜いた、爆発の時を待った厳しくも暖かい指導の日々が、今の彼女を支えていると思います。彼女の確かな足取りは最早止まることなく、きっとこの先先頭を走り続けるのでしょう。まるで精密機械のように。

戸山為夫に導かれたミホノブルボンという名馬がこんな馬でした。坂路調教というものの黎明期、徹底したトレーニングで知られる氏の調教に応え続けたピュアな栗毛の美丈夫は、記憶に残る名馬として今も語り継がれています。私には能年さんがこの名馬にかぶってしょうがない。彼女の輝きの異質さを感じ始めた人たちから、彼女を天才と呼ぶ人が出始めている。そうでしょうか?彼女は天才という程度の言葉に収まるのでしょうか?そんなに彼女の鍛え上げられた日々は安いでしょうか?

 

天才という言葉の安易さ、安っぽさを示す存在こそが能年玲奈。私にはそう思えてなりません。考えすぎたり、内向的で一種病的な人見知り、暗かったり、時に激しくいつも何かしら怒っている。実は大雑把な顔だったり。ゴツゴツした身体だったり。ともすれば女性タレントとしてマイナスにしかならなかった要素を、彼女と彼女の周囲は才能を開花させる為の当然の量の努力を費やしてプラスへと変えてきたに過ぎないのではないか。

 

渡辺えりさんがある番組でふと漏らしていました。この人は自分にも他人にもとても厳しい一面を持っている人であると。スパルタンなんですね、ここでも。膨大な量の才能を持ち、しかし同時に多くの欠点も抱えながら、自らを鍛え上げて超一流への道を切り開いた人。天才をはるかに超える克己と努力の人。そしてそれが当然な人。それが能年さんなんだと思ってます。他馬のことなど気にとめず、地平線を正確なラップで走り抜けるミホノブルボンのように。求道者のように。

 

余談ですが、アイドルって、実は成長しないことを宿命付けられてるのですが、能年玲奈はそのアイドルの部分を終生持ち続ける可能性があるのではないか。悪く言えば、馬鹿野郎な部分。彼女のアイドル性(というかその輝き)の源泉は、滝沢先生が見つけたのはこのピュアなのでは?と考えてます(私の言葉で言えば、少年のような生意気さです)。肉体の少女性は失われていく。女性は肉体と共に短いサイクルでメタモルフォーゼしていくのが運命の生き物かと思うんですが、彼女には少年の青臭いピュアが、その心の中に深く息づいているんではないか?なんて思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日記的な何か (仮) 能年玲奈 その瞳、昆虫

能年さんについては様々なものに例えてお伝えしたいというか。この方は小さな身体にハイポテンシャルがぎゅうぎゅうに詰め込まれた方だと。なんというか多様なのです。その一端を伝える言葉があふれて止まらないという、これはそんな「私の禁断症状」です。ちょっと連投します……。私はこれがベースで能年語りしてます。

 

この人を見続けて感じることが出来るようになってきたのは、この人の、ずば抜けた集中力の高さです。一種のアスリート的な感性というか。所謂文系じゃないんですよ。体育会系っていうのとも違い、理数系でもないんですけどね。そういう単純な区分はできないんですが、括るなら、アスリート系。目標に向かって一直線。

一般的にはそれは汗と涙と友情となんたらかんたらな訳です。そこに感動する、共感するという同調圧力とでもいうものが漂ってる。

 

しかし、普通のアスリートと決定的な違い。そこに感情は無いのです。これは本当に、無い。即物的というか。そこに対象があればそれを完璧に捕捉し、最短距離で捕食するイメージ。

 

人間、誰しもあるじゃないですか。何かを達成するために目標物を捉えて、目的を定めそして試行錯誤して積み上げていき、それを獲得した時の喜びの過程というんですかね?普通、人ってそうやって感動して生きてるような。一種の高等生物的喜びの創造過程

 

能年玲奈という人には、そういう過程における喜びを一切感じないんです。演者としてお芝居をする。そこは淡々としているんじゃないか。一つの仕事の行程として、一つ一つの演技があるのであって、その瞬間瞬間に感動してる訳じゃない。

当たり前の事のようでいて、これって至難の技ですよ。勉強でも仕事においてでもいいんですけどね、私たちって、ノってる時とノってない時ってあるじゃないですか。自分の中でのテンションの違い。ルーティンワークじゃなくて。仕事の内容が高度であればあるほど。この人からはそれを全く感じないのです。感情による揺らぎを。

あの、ミラクルな百面相の表情の裏に隠されたもうひとつの真実。彼女はあの表情に感情を乗せていない。ほとんどシステムとして稼働している。

それでいて、彼女の中で爆発している炎のようなものは光り輝いているんですよ。確かに生きている!感じている!生物なんだ!という輝きがある。

 

ともすれば冷たいじゃないですか。こういうのは。冷徹であるからこそ、この動きがあると思うじゃないですか。それこそ、あらゆる仕事をルーティンワークに落とし込んでいるような。しかし彼女の演技にはそこに確かな命の炎が揺らいでいるんです。

これ、カラスの親指くらいから顕著になってきたんじゃないか。実際、それ以前の彼女の演技にはまだぎこちなさ、それこそルーティンにこなしてるようなイメージがあったかもしれない。彼女の映画デビューと言える動物の狩り方という短編映像を見た限りでは、その圧倒的な表情の豊かさとは裏腹の暗さ、冷たさがあった。感情がのせきれて無いんですよね、多分。熱の伝わり方がちょっと足りないんです。いや、これは受け手である私の熱伝導能力に問題があるんですが、一般人の芸術体感レベルなんてたかが知れてます。そこまで降りてこないと降臨とはならないんだろうなあ。まだまだ修行中だったという事か。

少し前のエントリーにマシーンに例えてポルシェなんて書きましたが、本当に機械的な、プログラミング的な動きを見せる。しかしそこに限りない美を感じてしまうのです。

 

以前、NHKのバラエティ番組に能年さんと福士蒼汰なんかが出てくるのをやってたんですが。そこで神前相撲っていうのの演者のドキュメントをやってたんですね。

そこで能年さんがワイプで抜かれまくって実に楽しかったのですが、彼女のその時の表情がすごいのです。バラエティなんだから、こういう時ってモニターに流れるオッサンの一人相撲なんてヘラヘラ笑って見過ごしてお茶の間の皆さんにココ笑うとこ信号送っときゃ芸能人的お仕事は終わりだと思うんですね、こんなの。事実福士蒼汰以下皆そうしてました。

この人、ガン見してました。それはもう、恐ろしいくらいの真剣さと精密さ、正確さで。その時の表情が昆虫だったのです。こういう時の絵は、まあ綺麗に表現するなら女優の性からか、能年ちゃんの演者を見守る目はネコ科の猛獣が獲物を狙っているようなしなやかな美しい姿、とか、綺麗にまとめると思います。普通は。

そんなあまっちょろいもんじゃ無かったです。ガン見です。ガン見。首も動かさず、瞬きもせず。その表情から感情が読めない。例えるなら殺気です。カマキリの目です。最短距離で補足し、最速のスピードで捉え、瞬時に口に運んで躊躇せず頭から丸かじりにする目です。なんという集中力。これが、この姿こそが能年玲奈

そうです。その瞳、昆虫。なのです。人間じゃ無い。哺乳類とは遠い、なにか違う倫理、違う思考理論体系で動く生物。例えば昆虫。あるいは、エイリアン。

これは多分、究極に研ぎ澄まされた剣豪の境地、大横綱白鵬千代の富士レベルの集中力、洞察力ではないか。アスリートを超えるアスリート。総感じずにいられない。

 

 

 

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日記的な何か (仮) 能年玲奈 極めて機能的、そして芸術。

以前、ツイッターでお話した方との会話で能年さんはまるで高性能なヨーロッパの車のようである、というようなお話になったことがあります。

 

彼女の本音の部分、本質的な部分って、テレビなどの画面上からはわからないんですよね。完全にその役になって演じてるので。正体不明。そこの部分を探ることは基本、芸能活動を行う彼女からは出来ない。

バラエティで見せる彼女の姿をもって、放送事故とか言ってるのが「定説」みたいになってますが、あれは普通の20歳くらいの女の子がテレビに写ったらああなるんじゃないの?という反応に過ぎないと思うんですよ。今の人達は、テレビに映るような人は皆リアクション芸みたいなのが返せて、面白おかしい芸能人を見せてくれて当たり前と思ってないか。逆にそれが素だとかすら勘違いしてないか

出川哲朗はタレントとしてああいう人なのであって、普段の彼がどうかは、本当はわからない訳です。もっとも。彼はああいう人であるとは思いますし、彼はその部分を切り売りしてるのを公言してる部分も多々あるので、あれが素である、となる訳で、順序は逆ですよ。能年さんはそんな手順は取っていないんですね。つまり、ある意味普通の女の子として画面に映ってるのは、当たり前すぎるほど当たり前なのです。

 

そしてそんな能年玲奈ですが、何かこの人の絵からは一種特異な機械音みたいなものが聞こえるんんですよ。そういう、素の部分ってのとは別のレベルで。彼女の本性ってのは、本当に隠されてる感じがする。本質が出てないと感じられる。ある種の受け取り手である私たちにとっての不協和音。何者か正体不明の不安感。それを、無理やり安心させるための、パブリックな意味での「不思議ちゃん分類」がある。

本当の彼女なんてのは、多分全く表に出てこないんだと思う。私は彼女は極めて男性的な人、いや、男性そのもののような思考パターンを持つ人なんじゃないか、なんて受け取ってますが。

 

そんな、一種まるでサイボーグのようなテレビに映る能年さんを例えて、私たちは会話でヨーロッパの高級外車のようだ、なんてやりとりをしました。

そうですね、だから私は彼女はポルシェなんだと思って見てるんです。極めて高度に練り上げられた、走るためのみに生まれてきた機械。しかし、徹底した機能美は時に芸術的にまで練り上げられた美しさを放つ、911カレラ

ポルシェの如く、徹底的にスパルタン、無骨で、ある意味素朴。そして同時に美しくエロティック。とても人工的、人造的であるのに、クラフトマンシップ溢れる、見てくれこれを!という、彼女を造った人たちの情念がヒシヒシと伝わってくる。一旦走り始めたらその姿とスピードは人を魅了せずにいられない。私たちは彼女そのものよりも、彼女の生み出す疾走するスピードに魅了されている

 

彼女に対して感じる私の魅力はそんな部分にもあるのです。なんといっても、役者能年玲奈が好きなんですよねえ。