性的対象 (東京事変のアルバム風に)

必要ヴォルティスロボこと、つぃっ太のツイッターでのつぶやきを更に突っ込んで整理、発表したい時に利用しようと思います。 https://twitter.com/sangatukitijitu 主に 能年玲奈の事 あまちゃん他ドラマの事 ももクロちゃんの事書いてます。 

日記的な何か (仮) 能年玲奈 鍛えて最強女優を作る 能年玲奈はミホノブルボンである

あまちゃんメモリーズ という文藝春秋社からの本が出ています。書店に並ぶや売れている様子のあまちゃん関連本の一つですが、参加している面子がビッグだったりして、この手の本では値段も1300円と手頃ですね(中森明夫表題まで能年さんを駆り出す本は2100円だったりします)。その本で一番注目されてるかもしれない(そうでもねえのかなあ?まだ)インタビューが、能年玲奈を育てた人、滝沢充子さんの記事です。

彼女はいかにして能年玲奈を作り上げることが可能だったのか。私はその秘密を垣間見たくてこの本を購入しています。

 

能年さんは元々、役者になる事について積極的ではなかった様子です。兵庫の田舎から出て東京へという流れのなか、まあ、事務所的には役者、というかアイドルタレントって立場に育てるのが一番手っ取り早いメディア露出戦略ですわね。だから彼女を滝沢さんのクラスに見学にいかせたのですが。まるでピンと来なかったと。

この人は中学時代は軽音楽でバンドを組んでたくらいで、もともとは音楽の道に進みたかったんではないか。志向するのも相対性理論とかゆらゆら帝国とか話してたようで、相当マニアック。両親の影響でしょうかね。単純な乙女心では本当に女性ギタリストに憧れていたのかもしれない。音楽志向だったのですよ。意外にも。

画面に立つこの人からは何か切ない上昇志向、寂しさ希に見え隠れするのです。ここでは無いどこかに、きっと自分はたどり着けるのだ。そんな切なる願いを絶えず抱えていた少女時代があったのでは。

あまちゃんで、天野アキが時折見せるとても切ない表情。それは演出上のシーンでは無く、例えば北三陸へ初めて辿り付き夏ばっぱのウニを8個も平らげて(小ネタとして、気づいている人も多かったと思いますが、この人本当はウニ食べてません。嫌いなんでしょうね)、両手に頭を乗せて大きく仰け反って仰向けに寝転んでると、そこからキョンキョン春子と夏ばっぱが言い争いを始めた時の動揺を隠せない不安げな表情から、東京へ返る事をむずがる表情。この一連の流れの時本当に切ない顔をする。以前、宮沢りえがこんな表情をするのが印象的だったのですが。

たぶん、幼少期からの何かがあるんだろうなとは思ってます。

 

滝沢先生の元へ何度も通ううちに、あるとき彼女は演技をするという事に喜びを見出します。そして一気にのめり込んでいったという事になっています。出来る事は誰よりも出来る。しかし、疑問を感じると全く動かなくなってしまうという。セリフ覚えは優秀との事です。頭で考えるんでしょうね。それも表面的な計算能力じゃなく、本当に根っこから考え込む。自分のロゴスに変えているんじゃないか。そのロジックは他者には全く理解不能でしょうが。能年語に変換されていくのでしょうね。

 

彼女を得たとき、彼女の周囲はきっと、この子は増長させちゃダメだ!という使命感にかられたんじゃ無いかと。先生の生ゴミ発言ですが。岡ひろみを厳しく鍛える宗像よろしく、この鉄は打たないとダメだ!と感じ取っていたと思う。結構、この人調子に乗るタイプにも見えるんですね。自分の能力自体には、ポテンシャルには自信持ってる。唯我独尊、超マイペースじゃないですか。不思議ちゃんとかいってごまかしてますけどね。基本、生意気ですよ。

 

彼女は、「ピュア」だったそうです。初めて見た時から、それが最大の魅力とひと目でわかるくらい「綺麗」だったんでしょうね。生のママの美しさ。付け加える必要のない美しさ。その輝きが何物にも代え難い才能である事は、これから年々重くなっていくでしょう。

 

本物の才能って、素質って、きっとぶっ叩いてぶっ叩いて伸ばす時ってあるんじゃないか。褒めて伸ばすなんて言いますけどね。そりゃきっとスタートラインですよ。怒られるようになっていっちょまえ。生ゴミって言われるようになって初めて仮免の初学者って言えるのか(才能の無い私なんかは褒めそやして欲しかったですけどね)。

実際、褒めないと潰れちゃう。そんな人がほとんどな世の中ですが。いや、才能がないって意味じゃ無いんです。才能なんて溢れてるんですよ、いろんな才能が。でも、それが発見され育てられ、開花する事は難しい

逆に言えば指導者に、先人に叩かれもしない才能なんて、褒め続けなきや止まる才能なんて、所詮その程度なんじゃないか。

そして滝沢先生はこうも付け加える。あんたはこの世界でこそ大きく羽ばたけるよ、と。本人に才能がある。そしてそれを伸ばす人と環境がそこに揃ったとき、時として恐ろしいものが生まれてくる能年玲奈は逃げなかった。敢然と、自分を生ゴミとも例えるシゴキの世界で生き抜いた。周囲は彼女の才能こそ伸ばす一心で、決して褒めたりしなかった。ただ、こう言い続けた。お前が輝くのはこの道の先だ、と。

 

能年さんは、執拗に滝沢先生に食らいついていったようです。この世界で輝く、ここでは無い何処かへ行く為の手段をその手にする為に。大笑いと爆笑の微妙な差異にまで気を配る表現への嗅覚を駆使し。台本に書かれた内容とはあえて別のものを読み取る、あえて読み違える形で演技をする。そして周囲に印象づけていく作戦。

彼女の存在は、おそらく業界で知る人ぞ知るものだったのではないか(中森明夫でなくとも)。いつかこの子は大爆発するだろう。そのスピードとパワーは測り知れないのだろうと。

長らく、彼女はその潜在能力からは意外なくらい地味なままでした。実際彼女は高校生レストランなんかでうみにーこと川島海荷の隣にいたりしますが、今と同じく普通に可愛いです。というか、普通な可愛い子に過ぎない。当然全く目立たなかったのです。容姿だけでは十人並みなんですよね。そして主役でもない限り彼女はその演出範囲を超えるような事はしません。となれば、目立たなくなるんですね。実に合理的に自然に演技というものをしている。まるで呼吸をするように

彼女自身の地味さ、性格の暗い部分はそのまま生きていました。これは彼女のピュアさをスポイルさせたくなかったのでしょうね。

 

彼女自身の高い素質、それは勿論あるでしょう。そしてやはり滝沢先生始め周囲の人の時間をじっくりかけて彼女を執拗に鍛え抜いた、爆発の時を待った厳しくも暖かい指導の日々が、今の彼女を支えていると思います。彼女の確かな足取りは最早止まることなく、きっとこの先先頭を走り続けるのでしょう。まるで精密機械のように。

戸山為夫に導かれたミホノブルボンという名馬がこんな馬でした。坂路調教というものの黎明期、徹底したトレーニングで知られる氏の調教に応え続けたピュアな栗毛の美丈夫は、記憶に残る名馬として今も語り継がれています。私には能年さんがこの名馬にかぶってしょうがない。彼女の輝きの異質さを感じ始めた人たちから、彼女を天才と呼ぶ人が出始めている。そうでしょうか?彼女は天才という程度の言葉に収まるのでしょうか?そんなに彼女の鍛え上げられた日々は安いでしょうか?

 

天才という言葉の安易さ、安っぽさを示す存在こそが能年玲奈。私にはそう思えてなりません。考えすぎたり、内向的で一種病的な人見知り、暗かったり、時に激しくいつも何かしら怒っている。実は大雑把な顔だったり。ゴツゴツした身体だったり。ともすれば女性タレントとしてマイナスにしかならなかった要素を、彼女と彼女の周囲は才能を開花させる為の当然の量の努力を費やしてプラスへと変えてきたに過ぎないのではないか。

 

渡辺えりさんがある番組でふと漏らしていました。この人は自分にも他人にもとても厳しい一面を持っている人であると。スパルタンなんですね、ここでも。膨大な量の才能を持ち、しかし同時に多くの欠点も抱えながら、自らを鍛え上げて超一流への道を切り開いた人。天才をはるかに超える克己と努力の人。そしてそれが当然な人。それが能年さんなんだと思ってます。他馬のことなど気にとめず、地平線を正確なラップで走り抜けるミホノブルボンのように。求道者のように。

 

余談ですが、アイドルって、実は成長しないことを宿命付けられてるのですが、能年玲奈はそのアイドルの部分を終生持ち続ける可能性があるのではないか。悪く言えば、馬鹿野郎な部分。彼女のアイドル性(というかその輝き)の源泉は、滝沢先生が見つけたのはこのピュアなのでは?と考えてます(私の言葉で言えば、少年のような生意気さです)。肉体の少女性は失われていく。女性は肉体と共に短いサイクルでメタモルフォーゼしていくのが運命の生き物かと思うんですが、彼女には少年の青臭いピュアが、その心の中に深く息づいているんではないか?なんて思うのです。