性的対象 (東京事変のアルバム風に)

必要ヴォルティスロボこと、つぃっ太のツイッターでのつぶやきを更に突っ込んで整理、発表したい時に利用しようと思います。 https://twitter.com/sangatukitijitu 主に 能年玲奈の事 あまちゃん他ドラマの事 ももクロちゃんの事書いてます。 

日記 自分なりに神様を整理してみる (例えば日の出の事じゃないのかな。)

物語の、ストーリーの成り立ち、良いストーリーとは?ということをずっと考えてる。あまちゃん以来、物語を表層のストーリーとしてではなく、シナリオ、演出、美術、演者たちが展開し、それを視聴者が受け取って共有するひとつの構造物であるという認識が強くなってきた。

けっきょく物語を考えることは社会を、人と人とのつながりを考える事にほかならないんだと気づく。

 

物語を突き詰めると、つまりは一種の宗教、信仰につながるんだな、私たちは結局同じことばかり話題にしてるんだな、と驚く。

学生の頃、中世キリスト教徒たちは聖書の物語をのみ、詩歌や絵画、音楽として残すことを許されていたというような事を教師から聞き、なんとまあくだならい連中だ、出来損ないの古代人の作り話を必死になぞり続けるとは。リアリティに基づいた現在のドラマは実にアクティブでヒューマンだとか思ってた。

じつに恥ずかしい勘違いをしていたもんだと思うのです。人間なんて、結局神についてしか興味がないんです。神とはすなわち、「結局は一人で産まれて、一人で死んでいくしかない、この寂しい肉体に宿った迷子のコロロの唯一の拠り所」の事だった。

生物発生の瞬間から、私たちは元々は群体なんですよね。アメーバーとか、珊瑚みたいな存在。代を経て、所謂高等生物へ進化を続けるうちに、肉体は分離していきそれとともに個々の個体、という概念を獲得した。逆に言えば個体という概念は最早私たちを個性という檻に分け隔てて、最早一人で生きていくしか無い。殺し合うしかない存在へと変えてしまった。

私たちは寂しいんですよね。母とも継り続けられないこの肉体をもって生きなければいけない現実が。そして煩わしい。肉体は個体としてあるのに、私たちはどうしたって、共同体、社会の中でしか生きていけないのです。

 

どうすればいいのか?

 

共同の、共通の夢ってものを、歴史ってものを造ればいい。

 

なんだ、それは神話のことじゃないか。

その神話の元、私たちの人生は伝説になるという事なんだ。

 

そんな事に思い至りまして。学生の頃の不明を恥じています。

人は、例えばキリストの物語しか語り続けてはいないのです。

 

一人の作家は、結局同じ内容のストーリーを延々と書き続けています。タイトルやスタイルや時代考証やジャンルが変わってても。主人公が清水次郎長でもアーサー王でもアムロ・レイでも、一人の作家が描く世界は結局ひとつ。

これは私が漫画なんかをジャンルを問わず濫読してきて確信した一種の法則です。

その根本にあるのは、人は結局信仰を吐露し続けてるという事ですかね。

 

さて、信仰ってヤツはいったいその源泉をどこに求めたらいいのか。

私が一番好きな信仰についての考察に、アフリカの未開人の村を取材した学者の話があります。

彼らは朝、日が昇るのを見て手を合わせる。それを見た学者は君たちの神は太陽なんだね、と語る。するとその村人は怪訝な顔で答える。太陽?あんなものは神では無い。驚いた学者が、では何故太陽に向かって手を合わせるのだ?と尋ねると、それは朝が来るという事に、あの旭が昇る景色に手を合わせているのだと答える。

ここに、信仰ってものの原点がすべて詰まってると思うんですよ。感動なんですよね、彼ら村人を突き動かしているモノは。そしてそれは、ごく自然に全ての村人に共有されている。信じられている。

神様は、何かをしてくれるから尊いのじゃない。ただそこにある事にこそ感謝できる存在である。個体を超えて、全ての人が共感する価値。これが神様の正体じゃないか。そしてそれこそは。多分この世界を創り上げた存在なんだろう、と。

私たちは皆、その子供たちなのだ。この共感こそを、共有することが全ての物語に低通している。朝日が昇るのは感動する。それと同じ現象を起こしてみる。言葉と、絵と、歌によって。それが創作活動

 

物語とは神を語る事。モノを語る事。それは即ち、神である。

私たちは、プロ野球とか、大相撲とか、Jリーグとか。AKBとか。北島三郎とか。

キムタクとか、長澤まさみとか、とか、とか、

 

ももいろクローバーZとか、能年玲奈を共有するという物語を追いかけてる。

彼女たちは神話です。そして伝説です。それでいいんじゃないかな?

 

このテキスト書いてて重大なことに気付いた。

ハリウッド映画、私は好きなんですよ。でもボロクソいう人も多い。不思議だった。

アメリカ映画って、仏作って魂入れず、じゃねえか?

  そうなんです。かれらは物語で信仰を語らないんです。物語に信仰表明をさせない。キリストの物語においてキリストについて声高に俳優が叫んでも。キリストと無縁の人間がそこにいる。

とても注意深く、神を語ることを避ける。畏れる。

ハリウッドは嘘ばっかりとか言う。ああ、なるほど。その通りだ。彼らは嘘しかつかないんだ。物語ではなく、人間を、人間のパフォーマンスを主張する。

スターウォーズの物語性なんてどうでも良いんです。西部劇なんて嘘八百でいいんです。プライベートライアンはアメリカ軍がカッコ良かったらとりあえず正しいんです。何故なら彼らの佛はそこにはいないからです。

かれらは、彼らの演技にこそ、そのストーリーの仕掛け自体にこそ魂を入れる。

ああ、これ、(メインストーリーとしての!)あまちゃんだ、と気付いた。

俺が面白かった筈だ……。