性的対象 (東京事変のアルバム風に)

必要ヴォルティスロボこと、つぃっ太のツイッターでのつぶやきを更に突っ込んで整理、発表したい時に利用しようと思います。 https://twitter.com/sangatukitijitu 主に 能年玲奈の事 あまちゃん他ドラマの事 ももクロちゃんの事書いてます。 

日記的な何か (仮) 能年玲奈は阿修羅である (菩薩とかキリストとかのアレ系的なやつ)

能年玲奈が死ぬことは禁止されている!(アスラシステム作動!

 

そうじゃなくて、能年玲奈が阿修羅であるという一席です。ええ。山口百恵が、とか、前田敦子が、とかのあれです。能年さんを見ていて、ちょっと思うところありまして。

演者が役に成り切る事を憑依型とかいいまして、性格俳優の褒め言葉みたいに使われてます。上野樹里なんかは典型で、感情を顕にして役になりきり鬼気迫るシーンを演出していきます。ですので、若手の子を褒める時にはこの言葉は頻繁に使われたりしてる。

 

能年さんは今、彼女の演技に対する評価が非常に曖昧な状態です。人によっては演技力などなかった可愛いだけのピュアな天然少女という事になっています。ちゃんちゃらおかしいのですがこの際まあいいでしょう。あるいは中にこんな意見も出てくるのです。能年ちゃんは天野アキが憑依して、まるで天野アキにしか見えない存在感を出していた、と。能年玲奈という入れ物に、天野アキという存在を取り込んだのだと。

 

私はこの見方に全く同意しないのです。彼女の演技には彼女の感情が殆ど反映されていません。驚くべきことに、これは彼女が演じるあらゆる役において共通です。

彼女が感情的になる場合、それが彼女の演じる役の女の子が感情的になっているシーンなのです。あのあまちゃんでも名高い名シーン、アキがキョンキョン春子にアイドルになる事を涙とともに宣言するシーン。海女カフェでユイと魂の激突をし、「ダセぇくらい我慢しろ」と言い放つシーン。あのシーンで天野アキは確かに輝いていました。魂が躍動していました。しかし、それはなんというか。

 

能面が能を舞っているような美しさなのです。仮面の下から感情が吹き出ている。

 

能年玲奈では無いんですよ。あそこにいるのは天野アキなんです。完璧に、天野アキが存在しているんです。だからこそ憑依型なんて言い方になるのかと思いますが、根本が違う。彼女はアキを彼女の中に降ろしていない。どこか、凄く覚めてる。演技をしている自分を頭上から見つめるもう一人の能年玲奈が絶えずいる。監視している。例えるならそう、所謂、機械音が聞こえるんです。天野アキというアプリケーションシステムが起動しており、それは美しく彼女の肉体を経てステージに展開されている。しかしそれは能年玲奈というOSによってしっかり管理されている。彼女は芝居を支配しているように見える。私が彼女を芝居の王だと感じる所以です。したたかじゃ無く、穏やかじゃ無く、蠱惑的では無く、つまり女性的じゃ無い。猛烈に男性的。戦闘的、愚直、獰猛です。女王では無い。産む性では無く、切断する性。切り開く性。

 

彼女は天野アキを体内に降ろしたりしません。天野アキという仮面を被り、その表現を究極まで指先まで示してみせて、その時初めて魂を込めていると感じる。

魂?そう、彼女は全身全霊で役を演じ、コントロールしている。感情を役に乗っ取らせるように、天野アキに身体を明け渡しはしない。天野アキをねじ伏せている。

あの人の演技は命懸けで戦っている演技だと感じるのです。被った仮面に囚われず、自らの演技をそこに注いでいく。それを感じるようになって、本当に凄いものを毎日見せてくれてたんだと思っています。

恐るべき能力だと言わざるを得ない。

彼女は巫女では無いのです。司祭というべき存在である。彼女の中では彼女の意思こそが絶対の存在になり得る。彼女は自分の配役を従え、操り、意のままにする。

自らの肉体を役に提供させ、かつその身体をコントロールしている。当たり前でしょうか?私たちは会社員だったり、学生だったりするとき、実はその仕事の役に憑依されて働いているから出来ていること、多くないですか?

警察官とかみたいな制服を着た仕事の人なんか凄くわかり易いと思う。あれは正に仮面です。多くの場合、警察官はその制服により従わざるを得ない。彼らは自分たちの意志は別に、まずは制服の規律に従わないといけない。これと似たことがどの職業にも大なり小なり当てはまる。役者ってどうか?殆どの人は役に支配されていると言える。兵隊の役をやっているから兵隊に見えるんです。それがどうでしょうか。

あの人は、天野アキを演じていたのです。私たちは能年玲奈の演技を見ていた

能年玲奈の演じる天野アキを堪能させていただいていた。

これが若干20歳の少女の成せる業だろうか。

絶対的な信念、猛烈な自己意識。耐えざる勤勉。こういった要素が彼女の頭の中の誰かにはずっとある。能年OSとでも言うんでしょうか。女優脳。彼女は日常的に怒ってる、という告白を雑誌でしています。うまくコントロールできない、ともすれば役に飲み込まれてしまいそうになる身体を懸命に自分自身で支え、奮い立たせ、役を支配する。そこに汲々としている。女優脳と共存する、怒れる能年玲奈がいつもいる。

 

ある日、あまちゃんで彼女の面立ちを見ていて、その端正な佇まいから、朗らかな笑顔から。私はある物を見ていました。怒りのオーラのようなモノが、彼女の身体からは迸ってるんですね。彼女が天野アキを暴走させないで、彼女自身が天野アキをねじ伏せながら。

この人から立ち上ってるこれは、穏やかな陽炎にも見えたこの輝きは。実は猛烈な熱量を放つコロナだったんじゃないか。触れたら瞬時に蒸発してしまうような熱量。

そこに、阿修羅がたっていました。朝8時。彼女は炎の闘神となっていました。

そう。興福寺の阿修羅像。あの憂いを湛えた眼差しを私たちに向ける、八部衆の戦鬼の姿を思い重ねていました。元は正義の神だった彼は、仏法の世界では修羅界という絶えず争い続ける世界をあてがわれ住まわされました。強すぎる意志と正義への盲信は、妄執でしか無い。正義の神だったかれは今、仏の道を歩む。思い悩み傷つきながら立つその姿は、弱い私たちに圧倒的な支持を集めています。ヒーローなんですね。

 

誰もが心の中に、あの強い輝きを求めている。彼女は悟りきったように微笑んじゃいない。犠牲の子羊になんてなりはしない。自ら考え、悩み、そして究極の悟りというものへ向かって進んでいく。神前相撲の力士は最後は必ず神に敗れます。しかし、必ずその戦いに向かっていくのです。五穀豊穣を皆に与えるため。その漢が必要なのです。彼女はこの前、そこに自分を見たんじゃないか。何度でも立ち上がる。演技の道と戦いながら、演技の神と戦いながら、彼女はその四次元的感性と共に究極の演技を目指して演じ続ける。

 

能年玲奈は阿修羅である。