日記 ブログタイトル決定など
案外どうでもいい事ですがブログタイトルを性的対象としました。あまり深い意味はありませんが全く意味がないわけでもない。そして、ブログタイトルってホントのところどうでもいいのが良くわかる。ブログは記事しか読まれていないと実感します。
自分が読むときもそうで、気に入ったサイトだったりするとその時初めて記号的にブログタイトルを覚えたりします。検索用にね。
ここ数日更新しなかったんですが、アクセス数に変化が見られない。だいたい一日30前後というところで推移する。どうにかならんもんか。
googleに拾ってもらってないんでしょうね、これ。その方向で考えていくべき。
能年さんのことばっかり書いてるブログだったから、能年さん関連がやはり一番読まれてます。あまちゃんについてはあんまり読まれてません。この辺、面白いです。
日記 自分なりに神様を整理してみる (例えば日の出の事じゃないのかな。)
物語の、ストーリーの成り立ち、良いストーリーとは?ということをずっと考えてる。あまちゃん以来、物語を表層のストーリーとしてではなく、シナリオ、演出、美術、演者たちが展開し、それを視聴者が受け取って共有するひとつの構造物であるという認識が強くなってきた。
けっきょく物語を考えることは社会を、人と人とのつながりを考える事にほかならないんだと気づく。
物語を突き詰めると、つまりは一種の宗教、信仰につながるんだな、私たちは結局同じことばかり話題にしてるんだな、と驚く。
学生の頃、中世キリスト教徒たちは聖書の物語をのみ、詩歌や絵画、音楽として残すことを許されていたというような事を教師から聞き、なんとまあくだならい連中だ、出来損ないの古代人の作り話を必死になぞり続けるとは。リアリティに基づいた現在のドラマは実にアクティブでヒューマンだとか思ってた。
じつに恥ずかしい勘違いをしていたもんだと思うのです。人間なんて、結局神についてしか興味がないんです。神とはすなわち、「結局は一人で産まれて、一人で死んでいくしかない、この寂しい肉体に宿った迷子のコロロの唯一の拠り所」の事だった。
生物発生の瞬間から、私たちは元々は群体なんですよね。アメーバーとか、珊瑚みたいな存在。代を経て、所謂高等生物へ進化を続けるうちに、肉体は分離していきそれとともに個々の個体、という概念を獲得した。逆に言えば個体という概念は最早私たちを個性という檻に分け隔てて、最早一人で生きていくしか無い。殺し合うしかない存在へと変えてしまった。
私たちは寂しいんですよね。母とも継り続けられないこの肉体をもって生きなければいけない現実が。そして煩わしい。肉体は個体としてあるのに、私たちはどうしたって、共同体、社会の中でしか生きていけないのです。
どうすればいいのか?
共同の、共通の夢ってものを、歴史ってものを造ればいい。
なんだ、それは神話のことじゃないか。
その神話の元、私たちの人生は伝説になるという事なんだ。
そんな事に思い至りまして。学生の頃の不明を恥じています。
人は、例えばキリストの物語しか語り続けてはいないのです。
一人の作家は、結局同じ内容のストーリーを延々と書き続けています。タイトルやスタイルや時代考証やジャンルが変わってても。主人公が清水次郎長でもアーサー王でもアムロ・レイでも、一人の作家が描く世界は結局ひとつ。
これは私が漫画なんかをジャンルを問わず濫読してきて確信した一種の法則です。
その根本にあるのは、人は結局信仰を吐露し続けてるという事ですかね。
さて、信仰ってヤツはいったいその源泉をどこに求めたらいいのか。
私が一番好きな信仰についての考察に、アフリカの未開人の村を取材した学者の話があります。
彼らは朝、日が昇るのを見て手を合わせる。それを見た学者は君たちの神は太陽なんだね、と語る。するとその村人は怪訝な顔で答える。太陽?あんなものは神では無い。驚いた学者が、では何故太陽に向かって手を合わせるのだ?と尋ねると、それは朝が来るという事に、あの旭が昇る景色に手を合わせているのだと答える。
ここに、信仰ってものの原点がすべて詰まってると思うんですよ。感動なんですよね、彼ら村人を突き動かしているモノは。そしてそれは、ごく自然に全ての村人に共有されている。信じられている。
神様は、何かをしてくれるから尊いのじゃない。ただそこにある事にこそ感謝できる存在である。個体を超えて、全ての人が共感する価値。これが神様の正体じゃないか。そしてそれこそは。多分この世界を創り上げた存在なんだろう、と。
私たちは皆、その子供たちなのだ。この共感こそを、共有することが全ての物語に低通している。朝日が昇るのは感動する。それと同じ現象を起こしてみる。言葉と、絵と、歌によって。それが創作活動。
物語とは神を語る事。モノを語る事。それは即ち、神である。
私たちは、プロ野球とか、大相撲とか、Jリーグとか。AKBとか。北島三郎とか。
キムタクとか、長澤まさみとか、とか、とか、
ももいろクローバーZとか、能年玲奈を共有するという物語を追いかけてる。
彼女たちは神話です。そして伝説です。それでいいんじゃないかな?
このテキスト書いてて重大なことに気付いた。
ハリウッド映画、私は好きなんですよ。でもボロクソいう人も多い。不思議だった。
アメリカ映画って、仏作って魂入れず、じゃねえか?
そうなんです。かれらは物語で信仰を語らないんです。物語に信仰表明をさせない。キリストの物語においてキリストについて声高に俳優が叫んでも。キリストと無縁の人間がそこにいる。
とても注意深く、神を語ることを避ける。畏れる。
ハリウッドは嘘ばっかりとか言う。ああ、なるほど。その通りだ。彼らは嘘しかつかないんだ。物語ではなく、人間を、人間のパフォーマンスを主張する。
スターウォーズの物語性なんてどうでも良いんです。西部劇なんて嘘八百でいいんです。プライベートライアンはアメリカ軍がカッコ良かったらとりあえず正しいんです。何故なら彼らの佛はそこにはいないからです。
かれらは、彼らの演技にこそ、そのストーリーの仕掛け自体にこそ魂を入れる。
ああ、これ、(メインストーリーとしての!)あまちゃんだ、と気付いた。
俺が面白かった筈だ……。
日記的な何か ももクロちゃんにとってあーりん、しおりんの意味。
昨日の日記に書いた話の続きなんですけどね。物語は伝説と神話に分かれるというヤツ。
伝説って量産されるんです。キャラクターに汎用性がある。先代の主人公と、次の主人公の間に多くの共通点を有する。神話は伝播するんですね。不世出となるヒーローヒロインを一代記的に描くんです。私なんかは古い世代の人間で、昔のロボットアニメとかは唇ロボってのが全盛でした。特別なヒーローの特別なロボットが主役です。これを覆したのがガンダムでした。ガンダムの偉大さは、ただこの一点に尽きるんじゃないかとすらいえるかもしれない。そう、ライディーンはそのものズバリ神の神話ですが、ガンダムはアムロ達の伝説なんですね。
全ての物語に通底するキャラクター造形の基礎、見せ方の基本かと思うんですね、これ。
神話は伝説となり、伝説から神話が生まれる。この後先は良くわかりません。
ただ、神話になれるヒーローは本当は限られてます。星屑は数多あり、その中にはほかの星屑より少しだけ輝く星もある。でも、本当の星って言える星なんて、それこそ「目に見えるくらい」しかない。
それでも私たちは星空にいろんな夢を見るんですよね。あの小さな星は私の星だ、なんて。
それでタイトルに飛びますと。
私はももクロちゃんたちというのは星座だと思ってるんです。星座っていうのはそのままならあまり目立たないけれど、明らかに他の星屑よりは明るい星をいくつかつなげて、あたかもそれが一つの星であるかのように語る行為。
ももクロの奇跡は、その星座としての美しさにある。例えるならオリオン座。星座のことなんて何も知らない人であっても、私たちはオリオン座はすぐに見つけられると思う。というか、オリオン座を作ってしまう。北極星を中心に動いて見える大熊座なんかは星座の元祖でしょう。
まあ、適当に当てはめるならビートルズは大熊座であり、ももクロちゃんたちはオリオン座くらいに思ってください。そういう5人(プラス1)。
タイトルだけ書いてほったらかしの高城れにちゃん。彼女はあのグループの夜だと思って見てる。全てを柔らかく静かにそっと包み込む存在。無限に広がる存在。
夏菜子が太陽。そして隠れてしまった月が早見あかり。これを見上げて走り続けている人がモモカ。ももクロって結局、有安杏果のグループなんじゃないか。彼女の戦いと成長を見守る伝説なんじゃないか。そう思ってる人って意外と多いと思う。
じゃあ、あーりんと、しおりんってなんなんだろうなあ。
私はこの答えがまだ見つけられないでいます。
日記 良いストーリーとは?
物語とは大別して二つになるんじゃないかって考えてます。
まず、大原則として、物語が書かれ、読まれるのは、有りもしない「今」という時間を表現する為の方便であること。ここが出発点です。
世界は一見、一方通行の過去から未来への時間移動しかしていません。そこにあるのは、変えられる過去と、いまだ来ていない未来しか無いんじゃないか。つまり、私たちの生きた時間は既に過去なんです。未来は知り得もしない未知の空間が広がるだけ。
平行世界なんて本来当たり前に存在する。それは可能性でしかない。現在なんて時間がないんだから。変えられるのは過去だけなんだと。
さて、私たちは神の視点でのみ、この平行世界を俯瞰することが出来ない。
信じられないかもですが、私たちは神の視点で物事を見ています。その記録が物語。
生きているとは、物語を紡ぐこと。創作された物語なんて言い方が本来おこがましいのではないか。現実なんてものは、私たちが知り得るほんの小さな断片に過ぎない。
で、その方向性なんですが。二つになると。「神話」と「伝説」です。
神話はキャラクターを描く行為。伝説は物語のシステムを描く行為。
両者は互いに依存しています。そのスポットの当て方で変わる。
寓話とは神話の事。金太郎の寓話は金太郎という神の神話です。
そして金太郎が成長して源頼光と共に鬼を討つと、それは伝説となります。
私たちは神話を待ち望みながら伝説を紡ぎ続ける。
見つけられるのは大きな星。いくつかの小さな星は法則により組み立てられ星座となる。それは星屑の海にある。
私たちは星屑の中で大きな星を探す。いくつかの星を星座にする。これが物語。今を語るということ。
そう。占いって物語でした。これはカレンダーという科学になるんです。両者は別に違うものじゃ無いんだな、と気づいたんですよね。
今日はこれでおしまし♪
日記 魔法少女まどかマギカ 叛逆の物語 追記してます。
現代に蘇る宗教画 劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語 追記。
結局のところ、まどマギというのは二人のとても良い女の子達がいました、という程度の話でしかない。しかしそれが元々はワルプルギスの夜って馬鹿でかい敵を倒すという事に遮二無二向かっていく事から物語は転がりはじめ、果ては宇宙の法則を書き換える、という訳のわからない気宇壮大な話へと繋がっていく。
ドラマというものは、とても身近なところから、一種の公理、法則を導き出し、それを一般化して見せる行為なのかな、と。
キュウべぇってのが一体なんなのか、ですが。アイツ、「男」そのものだと。もうぶっちゃけ、sperma そのものです。根暗文系男子、虚淵玄のマッチェズムに対する痛烈な皮肉もこもってると思いますけどね。
sperma って、結局母体が無かったらタダのくっさい液状タンパク質なんですよね。それが男そのものではないか。少女を女にせずにいられないんですよ。
日記 能年玲奈のここが凄いんだよ 鍵のかかった部屋追記
能年玲奈 鍵のかかった部屋 追記しました。
能年さんのカレンダー買いました。表紙に、海女さん姿の天野アキ。本当に男前だなあ、この人。目が炯炯と輝いてる。小動物の瞳とか言われてますが、トンデモない。猛獣ですよ。猛禽です。失投を見逃さないホームランバッター、ゴールを狙うサッカー選手のようです。一番近いのって、高校球児の輝き。やっぱり男性的なんですよねえ。
能年さんの来年度2014年カレンダー購入。結構イイ値段です……。
素晴らしい……。惚れ惚れする「男前」!
この人は美少年なんだなあってつくづく感じる。俺ノンケなんだけどねえ。
ていうか天野アキでなくていいんだけどね。新しい能念さんが見たかったんだけどね。
#能年玲奈
— つぃっ太 @ 暦の上ではディセンバー (@sangatukitijitu) 2013, 12月 1
この目はしっかりと前を見据える。嘘をつかない。信じられる。そしてこの目には嘘が付けない。心が洗われますね。
アイドルのポスターとかカレンダーとか、壁に貼ってた事はありましたが、ここまで朝を清々しく感じさせてくれたのは初めてだな。こういうのがリフレッシュって言うんだなあ。この歳で気づかしてもらいましたよ。
3000円近い値段でしたが、今は後悔してません。この人が来年1年間この空間にいてくれるんだな、とシミジミ。